WP_Ch.3_哲学執筆のための文体と内容に関するルール Rules of Style and Content for Philosophical Writing
■Chapter 3 Rules of Style and Content for Philosophical Writing
幸運なことに、君の主題あるいは目的に関わらず、エッセイ執筆技能の中には共通の部分が数多くある。快適な範囲までは、執筆は〔内容に関わらず〕執筆である。〔具体的に言えばどんな執筆であろうと〕君が執筆するあらゆる種類のエッセイに必要とされるべき、構成、文法、句読点、用語法(このトピックは第7章と第8章で説明する)の問題がある。
哲学の執筆もこの規範に対する例外ではない。それにもかかわらず、幾つかの仕方で哲学執筆は特徴的 distinctive である。あるいは君は言いたくなるかもしない、それは奇妙 peculiar だと。〔というのも〕哲学執筆の幾つかの特徴は哲学というジャンルに固有であり、それらの特徴は、多くの哲学以外のタイプの表現においてよりももっと大きな重要性を占めている〔からである〕。これらの特徴は内容 content(何が言われるか what is said)と形式 form (どのように言われるか how it is said)の両方に関わるものであり、もし君が良い哲学エッセイを書かなければならないのなら、君はそれらの取り回し方を知らなければならないのだ。
手引きのために、次に挙げる諸規則を考慮してみることだ。そして実践を通じてうまくこれらの規則を適用することを学ぶこと。
Rule 3-1 君の聴衆に向かって書くこと Write to Your Audience
君が誰に向かって話すかによって話す内容も形式も変わるように、君が書く文章も誰が読むかによってその形式と内容が規定される。では哲学論文の読み手とは誰か?
君の指導教官がいるなら、読み手は指導教官や哲学の学生たちとなる。その人々は君よりも哲学についてよく知っていると仮定できるかもしれない。そうでない場合、君は十分に理解力や論文の評価の仕方を知ってはいるものの、特別哲学に詳しいわけではない知的な読み手を想定しなければならないだろう。両者のどちらに向かって書くかによって君はどのような語彙を使い、論点をどこまで細かく説明し、論証構造をどうすれば明確に示せるのかが異なってくることに注意しよう。このように読み手が誰であるかに注意するアプローチは、君に対してより良い理解を試みさせ、そしてその理解を執筆を通じて示す手助けとなるだろう。
もし一般的に想定されるよりも多く読み手について知ることができれば、読み手に対して君のエッセイを特別仕立てにすることもできる。例えば読み手について次の問いにどのような答えが返ってくるかによって君が君の案件をどのように提示するかは変わってくる。
論題についてよく知っている人々か?
君の立場に反対なのか? それともほぼ賛成なのか?
論題は読み手にとってどの程度重要か?
君が読み手と共有する関心事は何か?
君のエッセイが読み手の心に影響を与えたり、君の見解に対してもっと良い評価や容認をさせることは期待できるか?
Rule 3-2 見栄を張らないこと Avoid Pretentiousness
哲学は奥が深く壮大で高尚なものである。だから哲学論文は奥深く壮大に高尚に書かなければならない。このようなことを信じる人々がいるがそれは間違いだ。
〔確かに〕良い哲学はしばしば奥が深い。しかしその奥深さは表現された観念や論証に由来するのであって、大げさな書き振りに由来するのではない。壮大に思われようとするだけの執筆は見栄っ張りだと言われるし、見栄っ張りな執筆は、哲学者や哲学研究者によってこしらえられようとられまいと悪い執筆である(嘆かわしいことに、実際にはいくらかの哲学の書き手は見栄っ張りなのだが)。
見栄っ張りな執筆が悪しきものであるわけのひとつは、それが空虚だからである。見栄っ張りな執筆は外側は絢爛だが中身はほとんどない。だから、綿密な検討にさらされると崩壊するのだ。哲学論文は値打ちのある結論をサポートする中で実質的な論証 real argument を提供するとされている。だから知的な読み手は中身がないとわかるとがっかりするのだ。平易で明解な言葉で良質な論証 good argument を提示することに集中した方がはるかに良い。
次の例文をみてみよう。
【例文1】確かに、功利主義が、生命、自由、そしてすべてのこの地上の領域に生きる者の幸福の追求を増幅させるためのパラメータの考慮を通じて、人間の幸福を向上させることができるかどうかという問いは、極めて重要です。
「生命、自由、そしてすべてのこの地上の領域に生きる者の幸福の追求」などという言い回しは大袈裟である。上の例文から見栄を抜くと下のようになる。
【例文2】功利主義の原則が人間の幸福を向上させることができるかどうかは、重要な問いです。
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Rule 3-3 哲学者の権威と適切な関係を持つこと Keep the Authority of Philosophers in Perspective
第6章では哲学論文の文献 documentation に深入りする。ただし、この規則は関連するが独立した問題に対処している。すなわち、論文で哲学者の権威をどのように活用すべきかという問題だ。
見てきたように、論証において前提や結論を補強するために専門家の証言、エビデンスを使用することは正当である。これには哲学論文において提示された論点も含まれる。ただし、哲学者を引用して論拠を裏付けようとする際は注意が必要だ。哲学では世界が論理によって回っていることを思い出そう。命題と立場は関連する論点の妥当性に基づいて進展し、挑戦され、受け入れられ、拒否される。哲学のエッセイでは、論証が最も重要であり、本質的な問いは結論が前提から導かれるかどうか、そして前提が真実かどうかだ。したがって、哲学者が重要である場合でも、それは彼または彼女の論証によるものである。哲学者が権威として認識されているだけでは、提案が受け入れられるべきかどうかには何の影響もない。だから、〔例えば〕すべての人が自由意志を持っていることを証明したい場合、有名な哲学者がそう考えているだけでは、あなたの主張を何ら補強できない。ただし、その哲学者が作成した優れた論証を引用することで、論拠を強化することはできる。それは論拠が優れているためであり、特定の哲学者が作成したからではない(もちろん、そのような参照の出典は第6章で説明されているように正しく文献化されている必要がある)。
Rule 3-4 前提や結論を盛り過ぎないこと Do Not Overstate Premise or Conclusions
過剰な記述 overstatement は主張を誇張し、主張を実際より強くまたは包括的に聞こえるようにする問題である。我々は皆、過剰な記述の罪を犯すが、それはほとんどの場合日常会話で起こる。〔例えば〕我々は「誰もがジョーンズ教授を嫌っている」と言ったり、「アメリカ人はフランス人を高慢だと思っている」と言ったりするかもしれないが、実際にはジョーンズ教授を嫌っているのは一部の学生だけで、アメリカの友達のうちごく一部の人がフランス人の中の一部の人を高慢だと思っているだけかもしれない。日常会話では、このような誇張はしばしば理解され、強調のために無害に使用される。しかし、過大な主張は単なる歪曲であり、過度な主張がエラーや偏見に導くこともある。宗教、政治、道徳に関する対立する意見に関する主張は驚くほど過大だ(特に「性急な一般化」、「滑りやすい坂論法」、「藁人形論法」などの論理の虚偽に関する第5章の議論を参照せよ)。
哲学のエッセイでは、過剰な記述は決して許容されず、それに対して用心する必要がある。〔なぜならば〕それは読者に対してあなたの判断力、誠実さ、論点について疑念を抱かせる可能性がある〔からだ〕。〔例えば〕過大な形容詞や一つの大げさなフレーズですら、あなたの信頼性を損なう可能性がある。過剰な記述は読者に「ここには誇張がある。このエッセイでは他にも何かが誇張されているのだろうか」と考えさせることがあり得るのだ。
哲学の執筆では、過剰な記述は2つの方法で生じる。第一に、特定の命題(前提を含む)が過大になる可能性がある。例えば、エッセイで取り上げている問題が「今の時代で最も重要な問題である」と主張するかもしれない。前提が確実または疑いないと宣言するかもしれない(実際には単に確からしいだけかもしれない)。例えば、他の人間を殺すことは常に道徳的に誤っていると主張するかもしれないが、〔しかしそれは過剰な記述だったので別の箇所では〕自己防衛のための殺人は道徳的に許容されると認めるかもしれない。
第二に、論証の結論が過大に述べられることがある。〔すなわち〕論証の結論が論理的な推論が許容する範囲を超えている可能性がある。〔だが〕前章〔=第2章〕で見たように、結論は前提から導かれる必要がある。しかし、あなたの結論へのコミットメントからくる過剰な記述が発生する可能性がある。その結果、無効または弱い論証が生じるのだ。
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Rule 3-5 論敵や反対の見解をフェアに扱うこと Treat Opponents and Opposing Views Fairly
時折、人々が立場を主張する方法のほとんどは、最悪の教師から学ばれているように思える。政治討論型のテレビ番組などで見られるものだ。これらのフォーラムでは、標準的な手続きは対立者の性格や動機を攻撃し、対立する意見を歪曲または誤解し、対立者の根拠や懸念を一方的に退けることである。〔しかし〕このアプローチは、哲学の執筆においては容認されず、また許容されない。我々が見てきたように、哲学的な対話の理想は、すべての当事者の間で真実を客観的かつ公正に追求することである。攻撃的または不公平な手法は場違いだ。それらはまた効果的ではない。読み手がそのような手法に遭遇すると、執筆者の動機に疑念を抱き、執筆者が偏見を持っているのではないか、彼または彼女の主張が信頼できるものか疑問に思い、そうしたムダな熱意で擁護された議論の価値を疑う可能性がある。
論文で不公平さを回避するための2つの方法がある(どちらの技術も第5章で詳しく説明されている):
1. 藁人形論法の誤謬を回避すること。
2. 対人論証 ad hominem の誤謬を回避すること。
藁人形論法の誤謬は、誰かの立場を歪曲し、弱体化させるか、過度に簡略化して、より簡単に攻撃または反論できるようにすることから成り立っている。例えば:
ACLU〔American Civil Liberties Union、米国自由人権協会〕は学校の祈りに反対している。なぜなら彼らは自分たちの世俗的で無神論的な世界観を全ての人に押し付けたいからだ。彼らは宗教的な子供たちが静かで個人的な祈りすら許可されないようにするようことを最高裁に求めている。 https://scrapbox.io/files/6594241daf46d20025dbf1be.png
ここでACLUとその学校の祈りに対する見解は、荒唐無稽で反論しやすくするために歪められている。おそらくACLU(または他の組織)がアメリカ人に宗教的信念を捨てさせることを望んでいることは疑わしい。同様に、第2文におけるACLUの見解の描写は不正確だ。ほとんどの宗教的な組織でさえ、ACLUの祈りに関する立場をこのように誤解を招くような方法で描写することはないだろう。
要点は、対立する意見と議論は公正かつ正確に描写され、それらが持つ強みを認めるべきだということだ。このアプローチは、(1)あなたの読者があなたをより正直で誠実だと見なす可能性が高く、(2)あなた自身の議論で露呈された弱点に対処する方法を見つけることにつながる。
対人論証の誤謬(または人格への訴え appeal to the person とも呼ばれる)は、主張そのものではなく、その主張をする人に何か問題があるとして主張を拒否することから成り立っている。例を考えてみよう:
ジャン Jan が魂の存在について言うことは何も信じられません。彼女は哲学専攻だから。
我々は、人権などというものがあると考えるいわゆる偉大な思想家たちが提唱する議論を拒否すべきです。彼らが何を考えているかなど、誰も気にしません。
これらの論証は人間の性格や動機に訴えて主張を反駁または弱めようとしているため根拠がないものである。〔このような訴えが行われたとしても〕しかし、人の性格や動機はほとんどが主張の価値には関係ない。〔そうではなく〕主張は、その主張が有利であるかどうかに基づいて判断されなければならない。
Rule 3-6 明確に書くこと Write Clearly
明確であることは、読者にあなたの意図が理解されるようにすることだ。ほとんどの執筆の形式では、明確さはほぼ常に最も重要な美徳であり、哲学の執筆も例外ではない。実際、哲学の文章においては、難解で馴染みのないアイデアが多いため、明確さはおそらく他の多くのノンフィクションよりも重要である。
書き手の文章が明確でないことは、いくつかの方法で発生する。経験の浅い著者は、自分が何を意味しているかわかっているから他の人もわかるだろうという考えから、しばしば非常に曖昧な論文を書くことがある。通常、他の人はわからない。問題は、新しい著者がまだ自分の文章を他人がどのように見るかを見抜く手腕を持っていないことにある。言い換えれば、彼らは自分の言葉に対して客観的な態度をとることに失敗しているのだ。〔一方で〕優れた著者は自分の最良の批評者である。
自分の文章を他人がどのように見るかを考えるのは練習が必要である。良く効くトリックの一つは、1日か2日間文章を見ないでおき、それから戻って冷静に読むことだ〔例えば文豪のヘミングウェイは実際にそうしていた〕。この小休憩を取った後、以前は明確に思えたいくつかの部分がほとんど意味不明になっていることがわかるかもしれない。もう一つのテクニックは、同僚の査読を利用することだ。友人に君の論文を読んでもらい、不明瞭な箇所を指摘してもらう。友人は哲学に詳しくなくても構わない。〔とはいえ〕彼または彼女は単にあなたの対象読者と同様に知的で好奇心旺盛で、あなたの意図を理解できる必要はある。
曖昧さも文章を不明瞭にする原因となる。言葉や文が複数の意味を持つ場合(かつ文脈がそれを解明しない場合)、それは曖昧である。いくつかの曖昧さは意味論的 semantic であり、単語やフレーズの複数の意味に起因する。次の文を考えてみよ。
「子供たちは栄養価のあるおやつをつくる。Kids make nutrious snacks.」ここで「make」は調理するか、材料となっているかのどちらかの意味を持っています。前者の場合、文は子供が食べ物を作れると言っている。後者の場合、文は子供が食べ物そのものである〔=食べ物の成分だ〕と言っている。
いくつかの曖昧さは統語論的 syntactic であり、単語の結合の仕方に起因します。〔例えば〕この文を止まらずに直読みしてみよ。「マリアは双眼鏡で鳥を見た/マリアは双眼鏡を持った鳥を見た。Maria saw the bird with binoculars.」双眼鏡を持っていたのはマリアか鳥か? 私たちはわからない。なぜならば文が不適切に書かれており、単語が誤って配置されているからだ。もし文がマリアが双眼鏡を持っていたと言いたいなら、次のように書き直すであろう。「彼女の双眼鏡を使って、マリアは鳥を見た。Using her binoculars, Maria saw the bird.」
しばしば明確さの欠如は曖昧な用語ではなく、曖昧な用語からくるものだ。これは多くの種類の不注意の結果である可能性があるが、その中でもリストの先頭にくるのはあまりにも一般的な言葉を使う傾向だ。一般的な言葉は兵士、芸術家、本など、物事の全体のグループやクラスを指す。一方、具体的な言葉はモリス軍曹、ヴァン・ゴッホ、そして『陽はまた昇る』のようなより個別の項目を指す。
〔とはいえ〕一般的な言葉を使用すること自体には何も内在的に誤ったものではない。実際、哲学のような多くの状況では、我々はそれらを使用せざるを得ない。しかし、過度に使用すると、哲学の論文を容易に曖昧にしてしまう可能性がある。以下で、その例を考えてみよう。
ペア1
ホッブズ Hobbes によれば、すべての人は自由な行為ができる。
ホッブズによれば、すべての人は自由な行為ができる。自由な行為とは、(1)誰かの意志によって引き起こされ、(2)他の人や物理的な力や障害によって制約されていない行為のことである。
ペア2
カント Kant の人間の経験の一面に対する見解において、道徳的な考慮が私たちをどのような結論に導くかと、事実に反する状況を主張しなければならない行為〔虚偽を述べる〕との間には対立がある。
カントは嘘をつくことは常に不道徳だと信じている。
ペア1の最初の文は一見すると単純な主張のように見えるが、非常に一般的であるため、ほとんど謎めいている。自由な行為とは何か? ペアの2番目の文ははるかに具体的だ。最初の文を繰り返し、それに詳細を加え、行為が自由なものと見なされる前に満たされなければならない2つの条件を規定している。一般的な主張をより多くの情報を追加することでより特定し、無数の可能性を狭めた〔除去した〕ことに注目しよう。
ペア2では、最初の文は人間の経験、道徳的考慮、そして事実に反する状況を含む一般的な用語で満ちている。この文は第2の文が言いたいことを言おうとしている試みだ。第二の文はできるだけ一般性を避け、すぐに要点に入っている。嘘をつくことが常に不道徳であるという概念はもちろん一般的な原則だが、それをより具体的な言葉で表現することで明確さが増す。最初のペアとは対照的に、第2のペアの文は言葉を減らすことでより具体的になった〔言葉を増やせば増やすほど単純にspecificになるわけではない〕。
哲学の論文を書くことは常に一般的な用語を使用することを含む。鍵は、君の執筆を主題と目的が許す範囲で具体的にすることだ(執筆の明確さを向上させる他の方法については、第7章と第8章を参照すること)。
Rule 3-7 不適切な情緒への訴えをやめること Avoid Inappropriate Emotional Apeals
哲学の執筆において感情的な訴えはほぼ常に不適切であり、通常は初歩的な誤りと見なされる。おそらく最悪の違反行為は、感情を議論や前提の代替手段として使用することである。この策略は、情緒への訴え appeal to emotion と呼ばれる論理の誤り fallacy 〔虚偽〕であり、良い論点を提示するのではなく、読者の恐怖、罪悪感、哀れみ、怒りなどの感情をかき立てようとするものだ。
例えば:「陪審員の皆様、私のクライアントは無罪であると判断していただかなければなりません。〔というのも〕彼は押しつぶされた貧困、彼を拒絶した母親、そして一つの優しい心を求めて街を彷徨った、惨めな孤児の子供の結果なのです」
ここでの感情への訴えは哀れみへのものであり、この箇所は哀れみを呼び起こすようにデザインされた言葉で満ちている。しかし注意せよ:被告が無罪であると信じるための妥当な理由は提示されていない。この結論に対する論理的なサポートはまったく提供されていない。もしもこのような訴えが哲学論文の唯一の論点として意図されていた場合、その論文は失敗と見なされるべきであろう。
次に、政治的なレトリックの例を考えてみよう:
「親愛なる有権者の皆様、もしもあなたがたが私の対立候補を唯一の国の最高職〔=米国大統領〕に選出した場合、アメリカに対するテロ攻撃は増加するでしょうか? もう一度9月11日〔同時多発テロ〕のような出来事は許されません。安全のために投票してください。私に投票してください」
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これは恐怖への露骨な訴えであり、政治でよく見られる手法だ。妥当な理由は提供されておらず、ただ非常に恐ろしいシナリオが提示されている。
情緒的な訴えは、論証の代替手段として使用されない場合でも、読者を混乱させる可能性がある。特定の言葉やフレーズ〔情緒が〝装填〟された言葉 loaded words とも呼ばれる〕を使用して強い感情を呼び起こすことで、発言者は読者の態度や意見に強力な影響を与えることができる。
例えば:「この国における中絶賛成派の反生命的な力は、単純に存在するだけの子供を殺す中絶と同等ではありません。〔それどころか〕ナチスと同様に、ただ存在することが国家に不都合であるという理由だけで何百万もの人々を虐殺した彼らと同じくらいです。中絶の要求に対するマキャベリ主義的な考え方は、生命は死よりも良いとする啓蒙的な中絶反対 pro-life の見解に置き換えられるべきです」
この箇所は憤慨と嫌悪を引き起こすように感情的に設定されており、その効果の大部分はいくつかの強力な感情を呼び起こす言葉の使用から来ている。言葉の選択がほとんどの仕事をしているだけでなく、いくつかの誤謬の効果も増幅している。反生命、子供の殺害、ナチス、何百万もの虐殺、マキャベリ、啓蒙的などを考えてみよ。これらの言葉は誤解を招くように使用され、説得力がある。これらのうちほとんどは藁人形論法〔=反対論の矮小化〕の一部として使用され、一部は対人論証による攻撃に加担している(第5章を参照)。〔これらの言葉の中で〕感情的な言葉の大部分は中絶や中絶権利擁護者を悪く描くようにデザインされていますが、〔一方〕"啓蒙的"という言葉は中絶反対派の側に対して好意的な感情を呼び起こすために使用されている。
▲哲学執筆における5つのよくある誤り p.52
1. 勿体振った言葉使いで貧しい議論や理解の欠如を取り繕うこと。Covering up a poor argument or lack of understanding with pretentious language.
2. 君の事情を過大に記述すること。Overstating your case.
3. 論敵や反対の見解を貶めること。Ridiculing opponents or opposing views.
4. 藁人形論法という過ちを犯すこと。Being guilty of the straw man fallacy.
5. 情緒への訴えを使うこと。Using emotional appels.
Rule 3-8 君が仮定したことに自覚的であること Be Careful What You Assume
どんな論証にも、すべての当事者がそれを黙認しているために明示的に述べる必要のない前提が存在する。これらは言及するに値しないほど明白であるか、または正当化の必要がないかもしれない(これは論証に不可欠であり、公然と明らかにされるべきである暗黙の前提とは異なる)。
例えば、病院患者の権利に関する論証では、病院がシボレートラックではないこと、患者の権利が倫理と何らかの関係があること、そしてそのような権利が患者にとって重要である可能性があることを説明する必要が通常はない。ただし、読者の間で議論の余地のある主張を仮定しないように注意する必要がある。例えば、中絶が道徳的に許容されると主張したい場合、読み手が中絶を選択する権利があるか、または胎児が人でないという点に〔必ず〕同意すると仮定しないように注意しなくてはならない。
Rule 3-9 一人称で書くこと Write in First Person
君の指導者が他のやり方をするよう告げない限り、一人称単数代名詞( I, me, my, mine )を使うこと。これらはもっとフォーマルな我々 we (「我々は次に示すのは……」)、あるいは極めて形式張って堅苦しい言い回し、例えば「それは注意すべきことであるが……」や「示されなければならぬことは……」よりも好ましい。この助言は、能動態を使うこと(Rule 8-2)や君がなす主張("私が主張するのは……")に対して全責任を負うこととしっくり相関している。
ふかくさ「いわゆる Royal We は回避すべきものとされている」
Rule 3-10 差別語を避けること Avoid Discriminatory Language
性差別的または人種差別的な言葉は、特定のグループが他のグループと同じくらい優れてはいないかのように暗示する。この偏見を含む言葉遣いや文章は、さまざまな方法で散見されることがある。時折、人々が特定のグループを社会全体の一部でないかのように扱うときに起こる。哲学者の中には、問題を以下のように説明する者もいる。
例えば、いくつかの一般的な言葉遣いや文章は、「通常の」人々が全て白人の男性だと仮定しています。たとえば、その人が白人の男性でない場合、その人の人種、性別、または民族背景に触れることはまだ一般的ですが、白人の男性の場合は触れないことがあります。したがって、オハイオ州出身の白人の男性について話す場合、「オハイオ出身です」と単に言うことがあります。しかし、その男性がラティーノである場合、その事実を言及して「オハイオ州出身のラティーノです」と言うことがあるでしょう。それは、その人の民族的な背景が議論している内容と関係ない場合でも、「通常の」人はラティーノではないと仮定し、暗黙のうちに、もしそうであれば「異なる」し、通常からの逸脱者であると暗示しています。
もちろん、あなたが書いている内容に関連するかどうかによって、この特定の男性がオハイオ州出身のラティーノであることを述べることは適切かもしれません。その場合は、「彼はオハイオ州出身のラティーノです」と書くことに何の問題もありません。
*Brooke Noel Moore and Richard Parker, Critical Thinking, 6th ed. (Mountain View: Mayfield Publishing, 2001), 71.
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残念ながら、英語にはいくつかの差別的傾向が組み込まれている。伝統的に、男性代名詞は男性でも女性でも使用されてきた。例えば:
A good scientist will always check his work.
Any CEO of a large corporation will work hard because he is conscientious.
通常、最良の解決策は、男性と女性の両方の代名詞を使用するか、複数形に切り替えることだ。
A good scientist will always check his or her work.
Good scientists will always check their work.
Any CEO of a large corporation will work hard because he or she is conscientious.
CEOs of large corporations will work hard because they are conscientious.
もしもこの方法が差別的な表現を排除しない場合は、文全体を見直す必要がある。
Scientific work should always be checked.
Conscientious CEOs of large corporations work hard.
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↓英語文章の書き方本の古典とされる "The Elements of Style"
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